「娼婦」という名には哀愁や文学を感じるのはなぜだろう・・・・
すでに風景の一部だったとも言われている、知る人ぞ知る「ハマのメリーさん」の存在を映画を見るまで知らなかった。
メリーさんは横浜の街に立っていたアメリカ将校相手の娼婦だった。晩年は白いロングドレスをまとい、すり減ったヒールを履いて背中を丸め、顔は白塗り、ありったけのモノをガラガラ手押し車で押しながら移動していた。 そのいでたちから元伯爵だとか…いろんな噂が流れていたらしい。
彼女を素材として撮影してきたカメラマンと彼女とかかわりのあった、美容師、ゲイのシャンソン歌手などの聞き込みでまめたドキュメンタリー。
白塗りで歩く姿はまるで土方巽の「舞踏」のごとく、まるで仮面をかぶって変身したかのようである。 プライドが高く、はだかのお金は決して受け取らなかったという。 1995年突然消えたメリーさん。
何であの人は、凛としたまなざしをもっているの?何であんなに背骨は曲がっていても、胸を張っているの?
映画の中で流れる伊勢佐木町ブルースがぴったり相まっている。
(撮影:森日出夫)
かって、イタリアに滞在していた時、一人の女性が下宿の窓から見える路地に立っていた。時々、男が車で寄ってきて何やら話のあと、一緒に乗り込んで行った。 時には、カフェで珈琲を飲んでいたが、冷ややかな視線をものともせず、実に堂々としていた。
パリでは「売春婦組合」もあってストライキもするという話を聞いたことがある。日本でも「吉原」という合法的な遊郭があった。それを禁止したのは市川房江だと恨み節を言っていた男もいたっけ・・・
本棚の片隅に転がっているヨレヨレの手のひらサイズの辞書。 研究社の「新英和小辞典」入手したのは半世紀前の春、皮革製で表紙はぽろぽろ。
人生の終焉に先駆けて、整理をしなければと思いつつ、想い出の品々に触れるとなかなか捨てる踏ん切りがつかなくなる。
この辞書をリュックに入れて最初に外国の土を踏んだ。 以来、いつも旅のお供だった。もはや文字が小さすぎて、虫眼鏡が必要。
この辞書の贈り主は当時サンフランシスコから旅行に来ていたストーン夫妻。「八芳園」の立礼茶席で知り合った。つたない英語が通じて感激した瞬間である。
「時々美しい日本とあなたを想い出していますよ」 などと書かれるとお世辞でも嬉しくなった。写真を撮って送ってあげて、以来夫人とはしばらく文通が続いた。サンフランシスコでの再会を夢見て・・・(残念ながら、いまだにアメリカの土は踏んでいない)。
卒業祝いにと、手紙の中に5ドルの紙幣が送られてきた。当時は1ドルが380円! 何か記念になるものを・・・と、この辞書を購入したのだった。
とっても優しそうな夫妻だった。 今考えると、仕事を終えた定年旅行だったのだろう、今の自分と同じように。 もはや故人となっている夫妻との忘れがたいヒトコマ=青春の想い出である。
電車に乗って、ふと頭をあげると若き日の須賀先生が微笑んでいた。 「須賀敦子の世界展」の広告だった。 須賀敦子が静かなブームになって久しいけれど、彼女を陰ながら敬愛する自分としては車内広告としての存在に違和感を覚えた。
その出会いは須賀先生がイタリアから帰国して間もない1973年ごろ、慶応外語(慶応大学に付随する夜学の語学学校)だった。 先生はまだ40代で、エマウス運動をされていた時期、黒縁の眼鏡をかけ、セーターにジーンズ姿、時には藁のようなゴミまでつけて颯爽とクラスに登場したこともあった。
須賀敦子からイタリア語を学んだ、というよりイタリアを学んだのだった。 というのも、彼女は本格的にイタリアを丸ごと抱えているような・・・・そんな感じだった。 自分はお嬢様育ちで、聖心出のクリスチャンで谷崎や川端など多くの日本文学をイタリア語に翻訳しているのだ、というようなことは一切言わなかった。
授業はいつも脱線、テキストから離れてのイタリア話。それが楽しみで卒業後も聴講を続けながら、いつも思った。 こんな優れた人物がわずか5~6人の夜学校で教えているのは実にもったいないと・・・・・。
その後、「ミラノ霧の風景」が出版されたときはやっと世間も彼女の価値を認めたか、という想いで本当に嬉しかった。 徐々に須賀敦子の作品が書店に並ぶようになって(生い立ちや私的な部分が表面化)、ファンも増えて・・・・これからだという時に、新聞で訃報を知った。
今、こうして「須賀敦子の世界展」が開催され、ファンたちが続々と港の見える公園に足を運んでいる。 本人は照れ臭そうにニコニコ笑っているに違いない。近くに外人墓地もあり、お墓参りに来たような気分だった。
もし、自分にもっと能力と気力あったら、どこまでも須賀敦子の方へ歩いて行きたかった。
Merry Chrismas
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今日はクリスマスということで、西洋では一年の最も大事な日、 家族とともに過ごす日になっているらしい。 我が家には子供時代からサンタクロースが来たことはないけれど、バタークリームたっぷりのクリスマスケーキとやらを食べた記憶はある。なぜか仁丹のような銀色のつぶつぶとバラの花のデコレーションケーキだった。
勿論サンタクロースの存在は絵本などで知っていたが、煙突のない家にサンタが来るはずはない、これは外国だけの行事だろうと思っていた。余りにも絵本と現実のギャップが激しいので信じ用にも信じられなかったけれど、どんなおじいさんなのか会ってみたいという思いはあった。
イギリスではサンタクロースとは言わず、ファーザークリスマスと言うのだそうである。クリスマスデイナーは24日の昼にローストターキーとクリスマスプデイングを食べ、その後クリスマスケーキ・・・・という段取り。 24~25日は日頃教会に行かない人たちも教会に行き、26日はボクシングデー(Boxing Day)と言って使用人や牛乳配達・郵便配達人に贈り物(Chrismas Box)を渡すのだそうである。
コレは見習いたいと、綺麗に包装したチョコレートを新聞集金人と生活クラブの配達人に渡したらとっても喜んでくれた。 わずか300エンのチョコレートでこんなに喜んで貰えるのはこちらもシアワセ気分を味わうことになる。
世界には飢えや寒さで苦しんでいる人たちがまだまだ多く存在することを心のどこかで忘れないようにしたいものです。
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