早朝、やっと着いたカタール航空のドウハ!
目的地はあと8時間、ドウハからカサブランカへ。
何やら白いロングドレスのメッカ詣で帰りの集団にビックリ。その殆どが日本人の3倍ぐらいの巨体!
幸い臨席のおばあさんは細身で助かったけれど。座席のスペースからはみ出すおしりをどのようにしていたのか・・・。
とにかく機内の細い通路を巨体がワサワサ行ったり来たり・・・トイレ使用の仕方が、赤と緑のランプの意味不明、ドアの開け方も不慣れ・・・初めて飛行機に乗ったのかもしれない。おまけにお土産らしい荷物がわんさか積み込まれている。これがアラブ! 半世紀前の日本人的な光景である。
カサブランカ到着時には7名の小グループを待ちわびていたのは、なんとミニバス!これでモロッコ一周するのかと思うとドット疲労感が押し寄せた!
空港のアイドル、巨大な黄色い熊さんに再会。かなり広い空港では待ち合わせ場所としての存在価値が大!
羽田発22:50燃料費不要のカタール航空はJLとの提携便だが、機体も機内乗務員もJALのスタッフ。ロイヤルファミリー顔負けのスマイル!とても丁寧で親切。時々上等な制服のチーフらしき乗組員が巡回してくる。お目付け役なのだろう。制服はタイトスカート(安全のためにはズボンがふさわしいと思うけれど・・・)で日本流のオモテナシ。・
燃料費がかからないということで、座席は満席! 臨席は27歳のチャーミングなオーストリア人(森英恵の孫娘、森泉によく似ていた)
12時間も臨席同士だと寝て、食べての合間におしゃべりすることも多い。彼女は二人の姉たちと一週間の東京見物の帰路なそうで、寿司とラーメンがおいしかった。ウイーンでもラーメン屋あるけれど高いし、お寿司も最高! 渋谷のハチ公にも会ったと写真を見せてくれた。ハチの映画を見て、どうしてもハチに会いたかったのだとか。
彼女の姉二人はソーシャルワーカーをしていて、自分も目指している。なぜなら母が長いこと老人ホームで働いていた。父はコックだったけど体調を崩して今は働いていない。父はシリア人、母はルーマニア人でウイーンで出会い、結婚したとのこと。
なるほど、両親は出稼ぎ移民。道理で彼女たちの黒髪と長いまつ毛。両親は苦労してオーストリアの市民権を獲得したわけだ。父の故郷、シリアには父方の祖父が存命期間中には行ったことがあるけれど、今はもう関係のない国だという。
12時間後、カサブランカとウイーンに別れるのが辛いくらい馴染んでしまった。
モロッコの首都はカサブランカではなく、ラバト。
時には額が斜めだったり、エアコンの真下だったりいろいろであるが、殆どのホテルやレストランには国王の写真が飾られている。開かれた王室、一夫一妻制が実施。
国王誕生日には側近でジュースで乾杯する程度。お立ち台でお手ふりすることも園遊会を開くこともないとのこと。理由はモロッコはお金がないからとは現地ガイドの話。
現国王、ムハマド6世。1963~ 61歳
在位: 1999~
ラーラ・サルマ王妃はかなりの美人、旧ITエンジニア。次国王の長男と長女の女王出産後、いろいろ公的に活躍されていたのに、このところ姿が見えず、離婚の噂もあるのだとか・・・・何処の王室も問題ありの様子。
広場は平たんに広く、質素な感じ。年に三回国王が礼拝に訪れるという王のモスクとミナレット。
門兵は馬に乗って、馬は退屈そうに足踏みをしていた。
国内には何か所も別邸があり、夏などの避暑に行く場合はこの門から車でお出ましになるのだとか。
紫のジャカランタの花が満開。
この木の名前は聞いたけれど忘れてしまった。
羽田からドウハ経由でカサブランカへ。 20時間の空旅、しかも満席!
老骨に鞭打つとはこのことか。鞭のあとが痛くてたまらない・・・これって、老衰❓ 持参のカメラが動かなくなった、安物のスマホに頼るしかない。少しずつ少しずつ記憶をたどってみよう。
この細い通路には生まれたての仔猫が三匹。母猫は不在・・・どこへ行ったのだろう。
名もない崖の街をブルーに塗り立てて「青い街」を演出。それが大当たり! 「青い街シャウエン」のキャッチフレーズに騙された観光客がゾロゾロ。 猫との相性が良く、絵になる風景ではある。
何を見ているの? 猫まで青に染まっちゃうよ!
それにしても痩せた猫たちが多い。 イスラムの人は動物にも優しいけれど、去勢はしない、餌もシニア用とか療養食とかの区別はないから、日本のように20年も生きることはあり得ないらしい。
珍しく母猫がそばにいた。
動物愛護協会的なものはあるのだろうけれど、「生まれたら死ぬ」それが定めさ!
きょうだいがいると遊べるからいいよね。
メジナの猫、そのまんま絵になる。
またか! 21年前の地震の二の前が起こった。トルコ愛好家としてはとっても哀しい惨事である。 被災地は東トルコ旅行で訪ねたところばかり。簡単に大丈夫?とか元気?とかいう言葉が何か嘘っぽくなるので、しばらく沈黙していたがやっと繋がった。
『物資が足りない、届かないと日本メデイアは言っているけれど、物資はトルコにたくさん届いている。それを分別して其々の県に運び、被災地域に運び、被災者が集まる集団の場所で被災者個人の手に渡す! これが人手不足で荷物が送れない、交通路が不備で被災地に運べない。ものを送るのは簡単だけれど被災者の誰かがそれを手にするのはとても時間がかかる』
3・11の時も同じだったけれど、問題点は共通している。
こんな家があった。レンガを重ねて一晩で建てたような家、窓にはガラスの代わりにビニールが。中の女性は笑顔で手を振ってくれた。こんな家の場合は意外と逃げられるだろうが、経済成長とともに街中に建設された違法建築の高層アパートが問題だった。
おばあちゃんと孫たち。
川べりでピクニックを楽しんでいる集団。プレゼントとしてピンク色の小冊子「女性の生き方」をいただいた。東部ではイスラム色が強く、まるでイランの旅のような気分になった。
1997年6月撮影
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