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川越の友人が、深谷市の渋沢栄一の生地を案内してくれることになった。
江戸~明治~大正~昭和と日本近代化を走り抜けた偉人の原点。 まずは、栄一の従兄で論語の師匠でもある尾高新五郎宅を見学。江戸末期の建物で40年前まで子孫が住んでいたという、現在は深谷市に寄贈。 利根川氾濫時の床の跡や、倒幕密談をしたという部屋など。
片隅に、乾燥した「藍玉」とレンが展示されている。藍玉にはすでに菌はなく触ってみたがかなり重い。 子供時代、栄一は父親とともに藍玉を背負って注文を取り歩いたという。子供ながらに専門知識を踏まえて商才があったらしい。
1927年、軍国主義が台頭する中、米の宣教師と日本の実業家(栄一)との合意で平和と友好のシンボルとして12000体の人形がアメリカから送られた。残念ながら鬼畜米英主義で殆どが燃やされてしまったが、唄だけは残った。(作詞:野口雨情)。
♪青い眼をした お人形は アメリカ生れの セルロイド |
日本の港へ ついたとき 一杯涙を うかべてた |
わたしは言葉が わからない 迷ひ子になつたら なんとせう |
やさしい日本の 嬢ちやんよ 仲よく遊んで やつとくれ♪ |
明治23年に建てられた栄一の実家(先ごろ、天皇御夫妻も訪れた)
公民館前の銅像: 当初深谷駅前に建っていたのだが、巨大すぎて足元しか見えないので移動したそうである。 身長150~156センチというので、6センチの誤差はマゲの高さだったとのこと=カワイイ
1867年、ナポレオン三世の開く博覧会へ徳川昭武に随行し、渡欧。通訳はあのシーボルト。滞在中に、徳川幕府の倒れた報を受け、急きょ帰国を急いだ。マゲは巴里でちょん切ったそうである。
銀行・大企業・大学等々設立に尽力を注ぎ、先見の明ある偉大な人物として身近に感じるのだけれど、江戸末期に生れ、漢学論語に精通、政治にも宗教にも間隔を置き、最後まで実業家を貫いた。今の日本に存在したらどんなことを考えるであろうか?
末息子、渋沢秀雄氏の著「渋沢栄一」は親としての談話などが掲載され、とても興味深い。 尾高宅で密かに売られていた(1冊150円也)。
あやかって、論語でも読んでみようか・・・・と思うのだが、「論語読みの論語知らず」になることは見え見えである。
「娼婦」という名には哀愁や文学を感じるのはなぜだろう・・・・
すでに風景の一部だったとも言われている、知る人ぞ知る「ハマのメリーさん」の存在を映画を見るまで知らなかった。
メリーさんは横浜の街に立っていたアメリカ将校相手の娼婦だった。晩年は白いロングドレスをまとい、すり減ったヒールを履いて背中を丸め、顔は白塗り、ありったけのモノをガラガラ手押し車で押しながら移動していた。 そのいでたちから元伯爵だとか…いろんな噂が流れていたらしい。
彼女を素材として撮影してきたカメラマンと彼女とかかわりのあった、美容師、ゲイのシャンソン歌手などの聞き込みでまめたドキュメンタリー。
白塗りで歩く姿はまるで土方巽の「舞踏」のごとく、まるで仮面をかぶって変身したかのようである。 プライドが高く、はだかのお金は決して受け取らなかったという。 1995年突然消えたメリーさん。
何であの人は、凛としたまなざしをもっているの?何であんなに背骨は曲がっていても、胸を張っているの?
映画の中で流れる伊勢佐木町ブルースがぴったり相まっている。
(撮影:森日出夫)
かって、イタリアに滞在していた時、一人の女性が下宿の窓から見える路地に立っていた。時々、男が車で寄ってきて何やら話のあと、一緒に乗り込んで行った。 時には、カフェで珈琲を飲んでいたが、冷ややかな視線をものともせず、実に堂々としていた。
パリでは「売春婦組合」もあってストライキもするという話を聞いたことがある。日本でも「吉原」という合法的な遊郭があった。それを禁止したのは市川房江だと恨み節を言っていた男もいたっけ・・・
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