作家の野上弥生子(1885~1985)と哲学者の田辺元(1885~1962)との書簡集(1950~1961)が2002年に岩波から刊行され、『老いらくの恋』と評判になった。
北軽井沢に夏場だけ逗留する野上と在住の田辺との手紙の往復は今ならメールとか電話で事足りるのであろうが、当時ならではの「文」だったのである。 二人とも伴侶は失っていたので「不倫」とかの安っぽいものではなくお互いに深く尊重・信頼し、単なる愛とか恋とかではなく、ハイデッカーやキルケゴール、ハイネ、リルケ、エックハルト等々が登場し、格調高い文章で綴られている。
北軽では徒歩10分足らずの住まいだったにも関わらず、連日のように手紙が届く(お手伝いさんが届けてくれたらしい)。 野上が在東京時には、一人暮らしの田辺を気遣って、福砂屋のカステラや空也最中、魚久の粕漬や果ては寒かろうと電気ストーブなども届ける。冬場はインクが凍ってストーブで溶かしてからという表現も当時の寒さを思い起こさせる。
二人はともに感性を磨き上げ価値観を共有し、各々の仕事に向きあう。最後まで「奥様」と「先生」という呼び名で礼儀正しい、まさに「純愛」ともいうべき関係に感動。 スタンダールの恋愛論の結晶作用がそのままになったかの如くである。
1954.3.20: 野上から田辺へ
ビキニの島の死の灰のことにつき一筆いたします。あれは新聞などには出ておりませんが、どうも米の方で学術的に『計算のまちがい」があったらしいと申すのが素粒子の仲間の批評のようでございます。
今度の原子炉の設立のもんだいも多くの議論を生じておりますが、私は茂吉郎(弥生子の次男、物理学者)に申し聞かせました。あまり潔癖に拒絶して、もしアメリカの連中が雇われて実行にうつされるようになっては取り返しがつかないから、その点は用心すべきであると。素粒子の仲間もこの頃はそれも考えているふうでございます。
1956.03.30: 田辺から野上へ
水爆についての色々のはなしを聴いたり、読んだりして居ますと、人間の将来に悲観的になります。日本の国会が原爆国際管理の決議をしたところで、日本民族そのものが国際的軽蔑をまねくような政治を改めることもできないありさまでは、決議も権威をもちますまい、首相の外遊など国辱のものでございましょう。とにかく毒をもって毒を制する意味で、疑獄追窮が内閣を早くつぶすことをきぼうせざるを得ませぬ。
♪シクラメン緑葉に映えて紅の色なづかしき君が押し花♪
1956.01.08: 野上から田辺へ
その時の湯川さんの印象は、私どもの概念にある学者というもののタイプとは全然遠い感じで、いまに日本に原子力産業会社という風なものができたら、社長になれる、と帰って笑い話をいたしました。
正力の下で、石川一郎などと仕事するのはいっそふさわしいかとさえ存じられます。中間子を見つけたって、人間が別に偉大になるわけでも進歩するわけでもございませんから、多くのそ期待をかける方が間違いかとも存じられます。
野上弥生子は田辺元没後、20年の年月を過ごすことになる。
実に不思議なことに、極右哲学者、埼玉大学名誉教授・NHK経営委員・日本会議代表委員の長谷川三千子氏は野上弥生子の実の孫娘なのである。DNAも孫の代になると希薄になるということだろうか???実は長谷川三千子という「人物」がどんな家庭環境だったのだろう・・・と調べてみてビックリだったのでした。
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