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2016年12月

2016年12月26日 (月)

サンタクロースはトルコ出身!

12月になると、日本でもいるのかいないのかわからない不思議な「サンタクロース」のことで、子供の心がいっぱいになる。 煙突がないのにどこから入るのかな? どうも外国人のおじいさんらしい。「サンタさんは近くのデパートでお買い物して来るんだね」という子もいたりしてなにか幻想的な物語を想像してしまう。

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最近不幸なテロ続きで観光大国のトルコは極端に観光客減少、特に日本からはゼロという状態が続いています。トルコ愛好家の私などにも「トルコって大変ね~」と同情の声がかかりますが、殆どの人はシリアもトルコもアラブも中近東全体がゴッチャになって、イスラム=テロで危険な国というイメージが強いようです。 なぜテロが起きるのだろう?なぜ難民がいるのだろう?と考えて欲しいものです。 

イスタンブルの日本人向け旅行会社に長年勤務していた友人は、現在新たに設立されたフジTVイスタンブル支局で活動開始。 トルコのニュースとともに今回は本人が「サンタクロース」の話題を提供しています。 是非クリックしてご覧ください 🎅

https://www.houdoukyoku.jp/archives/0008/chapters/26658


サンタクロースって一体何者?

いろんな伝説があるけれど、実は、4世紀ごろ、小アジア(現在のトルコ)のミュラの司教であった、聖ニコラスだと言われています。

以下、女子パウロ会のブログより:

聖ニコラス(271~343年ごろ)は、現在の南トルコのデムレ、かつてのギリシアの町ミュラの司教でした。彼は、日ごろから、困っている人や貧しい人を助け、自分の持ち物を惜しまず与えていた心のやさしい人でした。 

あるとき、ニコラスの近所に3人の娘のいる家族が住んでいました。たいへん貧しくて、娘を売らなければならないほど、お金に困っていました。そのことを知ったニコラスは、その夜、その家の煙突から金貨を投げ入れました。ちょうどその金貨は、暖炉のそばに干してあった靴下の中に入って、そのお金で娘は救われ、後に結婚することができたのです。聖ニコラスは、同じことを下の2人の娘のときも繰り返し、その家庭を救ったと言われています。

サンタクロースの着ている赤い服は、聖ニコラスが生きたころの、司教の儀式のときの服がもとになったと言われています。司教の赤い色は、自分の命をかけても、他の人を助けることを意味していて、血を流しても人々のために尽くすしるしでした。

しかし、今のサンタクロースの赤い衣装を考え出し有名にしたのは、1931年、アメリカのコカ・コーラ社が冬のキャンペーン広告のキャラクターとして、サンタクロースを起用したことから、サンタクロースの名前が急に、世界中に知られるようになりました。 


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      聖ニコラスの遺骸が収められていたという石棺  photo by Wikipedia

2016年12月24日 (土)

クリスマス イン ウイーン 1994

こんな素敵なコンサートだったら、1994年にタイムスリップして行ってみたかったなア~と思わせるCDを年賀状を書きながら聴いている。 

今日は12月24日、西洋では年に一度の静かな夜を家族とともに過ごす日、クリスマスプレゼントも、七面鳥の料理も滞りなく準備されたことでしょう。

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出演は世界のテナー、プラシード・ドミンゴとノルウェイーのシセル・シルシェブールそしてシャンソン界の大御所シャルル・アズナヴール。 果たして3人の個性は反発しあわないのだろうか?という心配をよそに、ドミンゴの浪々としたテノールとセシルの透き通るクリスタルヴォイスそしてアズナヴールの嗄れ声がウイーンフィルを背にごく自然にハモッテいる。

ドミンゴがアズナヴール曲の「アベマリア」を唄う・・・実に心地よいクリスマスソングに聴き惚れてしまう。

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                 わが家のサンタも健在

2016年12月19日 (月)

『仕立て屋のネコ』 ~ 藤田嗣治展

府中美術館でフジタ展開催中ということで、間際になって駆け付けた。都心から離れているせいか、割と空いていた。 ここもやはり、女性が多い。

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中でも戦争画と言われる2作品は圧巻だったけれど、サイズが大きく、部屋も暗いので首が痛くなった。 猫の表情が豊かで、馴染みの作品が並んでいた。

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この猫は仕立て屋の主人の道具をじっと見ていて、隙あらば手を出しそうな気配。  シッカロール混入の乳白色と黒い線が特徴の作品を観て「フジタ」を感じることになる。

戦後、戦争協力画家という汚名を着せられて、日本を去り、二度と帰国しなかった。 「僕が日本を捨てたのではなく、日本に捨てられたのです」という言葉には痛みが伴う。

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              館内はゆったりとして心地よい


2016年12月16日 (金)

年の瀬を感じさせる花々

年の瀬を感じさせるのは門松というより、この花たちではないだろうか。 ポインセチアとかいう赤い花だか葉だかしらないけれど、友人が持ってきた。 ピンクがかって「プリンセチア」という名札がついていた。

シクラメンも野生っぽい小さなサイズ。 水遣りを忘れなければ、かなりの期間咲き続ける。R0018352
年賀状も書かなくちゃ、病院回りもしなくっちゃ・・・なかなか掃除・片付けまで辿り着けない。 開き直って、来年まで持ち越しということになりそう… 

2016年12月12日 (月)

『自由学園』 ~ 東久留米

12月10日: 

東久留米郷土史研究会主催の見学会に参加し、自由学園の外観を見学。 キリスト教精神を基本に1921年豊島区に創立、1934年東久留米に移転。 、広い敷地に驚く。 建築したのはライトの弟子、遠藤新氏。 どことなく明日館のある旧校舎と似ている。

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        木造校舎は現在も小学部として使用されている

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    校内の木々は集められ、かまどでの炊飯の燃料として生かされる

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食堂に向かう学生たち。「こんにちわ」と挨拶していく。 制服はないそうであるが、同じようなチェックのスカートにジャケット。 男子部もあるということだが、一人も見かけなかった。 男女同クラスではなさそうだ。

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           ここは駐輪場、かわいい手書きの看板があった


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学園内の畑、幼稚園から農作にかかわり、収穫したものは自分たちで調理。

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               作物を運ぶリヤカーは必需品

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戦時中は『自由』という名前が気に入らない!と学園生は最も過酷な戦地に送られた。敷地内には犠牲者になった園生の慰霊碑が建ち、生花が添えられていた。

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                  枯れたシバユリ

幼少期を寒村で過ごした幼い日々が蘇る。農家の子供たちは見様見真似で親から農作業やら、マキでご飯を炊くことを普通に習得したものだ。 タイムスリップした、まさに都会人のための自然志向の学び舎のような気がする。 誰かが言っていた、「今、自由学園は不自由学園なのよ」・・・と。

1920年代にリベラルな発想の教育を実現させた創立者の羽仁もと子夫妻の情熱が100年後も継続していることに感銘を受けたが、現在の学園生たちはどんな問題を抱えているのかが気になって仕方がない。

 

2016年12月 1日 (木)

『明治20年創業の老舗』 ~ 閉店

練馬駅近くの大通りに存在した「金物屋=DIYの店」の老舗が昨日で店じまい。 釘一本から鍋・釜・斧等々・・・・何かと本格的な道具が揃う便利な店だった。 配達もしてくれて、「メイドインチャイナ」は極力置かないようにしていると店主は言っていた。 聞けば、創業は明治20年というからビックリである。

明治20年の練馬とはどんな風景だったのだろうか? 西武線などもなく、あたりは一面畑、さぞかしねりま大根もとれたことだろう。 きっと農家相手の道具屋だったに違いない。

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陳列棚はガラガラ、これからどこへ買いに行けばいいの?と残念に思っている人も多い。 

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         この写真は長命寺らしい  (練馬歴史資料館より)

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わが家の花壇用の道具は普通サイズよりやや小さめのスコップと鍬。

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おかげで今年もパンジーを植えこむことができた。 師走である。

           

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