わたしの中の『須賀敦子』 ~ 神奈川近代文学館
電車に乗って、ふと頭をあげると若き日の須賀先生が微笑んでいた。 「須賀敦子の世界展」の広告だった。 須賀敦子が静かなブームになって久しいけれど、彼女を陰ながら敬愛する自分としては車内広告としての存在に違和感を覚えた。
その出会いは須賀先生がイタリアから帰国して間もない1973年ごろ、慶応外語(慶応大学に付随する夜学の語学学校)だった。 先生はまだ40代で、エマウス運動をされていた時期、黒縁の眼鏡をかけ、セーターにジーンズ姿、時には藁のようなゴミまでつけて颯爽とクラスに登場したこともあった。
須賀敦子からイタリア語を学んだ、というよりイタリアを学んだのだった。 というのも、彼女は本格的にイタリアを丸ごと抱えているような・・・・そんな感じだった。 自分はお嬢様育ちで、聖心出のクリスチャンで谷崎や川端など多くの日本文学をイタリア語に翻訳しているのだ、というようなことは一切言わなかった。
授業はいつも脱線、テキストから離れてのイタリア話。それが楽しみで卒業後も聴講を続けながら、いつも思った。 こんな優れた人物がわずか5~6人の夜学校で教えているのは実にもったいないと・・・・・。
その後、「ミラノ霧の風景」が出版されたときはやっと世間も彼女の価値を認めたか、という想いで本当に嬉しかった。 徐々に須賀敦子の作品が書店に並ぶようになって(生い立ちや私的な部分が表面化)、ファンも増えて・・・・これからだという時に、新聞で訃報を知った。
今、こうして「須賀敦子の世界展」が開催され、ファンたちが続々と港の見える公園に足を運んでいる。 本人は照れ臭そうにニコニコ笑っているに違いない。近くに外人墓地もあり、お墓参りに来たような気分だった。
もし、自分にもっと能力と気力あったら、どこまでも須賀敦子の方へ歩いて行きたかった。
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奥が深いですね。
『須賀敦子』を語れる友がいてシアワセです。
投稿: elma | 2014年11月17日 (月) 21時05分
ほんとに私生活が詳しく言われすぎてますよね。
「ユルスナールの靴」や、未定稿「アルザスの曲がりくねった道」などを読むと、
もっと普遍的なものが書きたかったのではないかと、強く感じます。
(敬称略で失礼)
投稿: こはる | 2014年11月17日 (月) 10時43分