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2011年1月

2011年1月27日 (木)

窓からサッカー場が・・・  (Istanbul)

友人のアパルトマンを訪ねてビックリ。 

窓からガラタサライチーム(稲本が一時在籍)のサッカー場が丸見えなのだ。  ビール片手に時々望遠鏡で選手の顔を拡大すれば、もう言うことナシ。 次回は是非是非試合中にお邪魔したいと思ったら、残念~ サッカー場はまもなく他の場所に移転になり、跡地には高層ビルが建設されるのだそうだ。 自慢のボスポラス海峡も見えなくなると嘆いていた。 

最近、歴史都市イスタンブルの近代化はけたたましい。 オシャレに綺麗になるけれど、ビルの林のイスタンブルなんてイヤだなあ~。

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トルコのサッカー熱は日本の巨人vs阪神以上にヒートアップ、 試合日の交通は大混雑、テレビの前で歓声を上げ、 公園では子供達がボールを蹴る。 

欧州では弱小国だったトルコは2002年WCで日本に勝利、ベスト3となって帰国、 飛行場からタクシム広場まで国を挙げて大騒ぎだったらしい。 対日本戦があったらどちらに応援しようか・・・

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          こちらはジーコ監督が在籍したフェネルバフチェのサッカー場外観。 

2011年1月21日 (金)

「コクトー、1936年の日本を歩く」 西川正巳著  中央公論社

1936年(昭和11年)5月16日から7日間ジャン・コクトーは戒厳令下の日本に来ていた。 しかも香港からチャップリンと同船で神戸に上陸。 すでに作品が翻訳され知名度のある詩人は日夜熱烈な歓待を受けながら、彼の詩眼は鋭い観察をしている

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芸者達と連日席をともにし、芸者をさして「仮面の裏側に感情を匿した哀しげな人形」といい

「日本の女性にはふわふわとして、微風に翻る薄絹というか、胡蝶とかそういう柔らくて、軽い感じと、反面、鉄の筋でもはいっているかと思われるような堅さがある」、

相撲を観戦しては、「若いバラ色のヘラクレスたち」、双葉山を「無敗の仏陀」と表現。

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歌舞伎座では六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」を見て、「舞台の上の宗教神事の高さ」とラジオ番組で語った。 

その後、彼の映画「美女と野獣」のメークアップは歌舞伎の隈取から発想したものであるという定説になった。

同行案内役は名翻訳者堀口大学とモンパルナスの旧友、藤田嗣治。フジタは浅草・吉原・玉の井に連れ出す。

コクトーファンの林芙美子が文芸家協会会長(菊池寛)の代理として花束を贈り、日本ペンクラブは出来立てのホヤホヤで会長は島崎藤村、「恐るべき子供たち」の翻訳者は何と画家の東郷青児だった等々・・・・ワイドショー的にも面白い。

コクトーは大正・昭和初期の日本インテリ・カルチャー族にはあこがれの的であったらしいが、相反して時代は軍国主義に導かれて行く矛盾を辿るのである。 

「コクトオの見た日本」「コクトーの世界一周」・・・・・・堀口大学の日本語の美しさに敬服。

                  私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ

2011年1月16日 (日)

アズナブール・パサージ Aznavur Pasaji (Istanbul)

イスタンブルの銀座通りといわれる、イステイックラル通りの横丁、チチェッキ・パサージ商店街は有名だが、最近アズナブール・パサージとやらがお目見えした。 というより、気がつかなかっただけで、昔から存在していてアルメニア人が商売をやっていた場所なのだろう・・・・・・・これは19世紀のイスタンブルまでタイムスリップする必要がありそうだ。

シャルル・アズナブールといえばシャンソン界の大御所、アルメニア系フランス人(両親はトルコからの移民)、お祖母さんはトルコで亡くなっている。 彼のコンンサートを追いかけて早40年、アズナブールという看板に反応しないわけにはいかなかった。

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2011年1月11日 (火)

オヤ OYA (Nallihan)

R0010347_2 オヤ(Oya)はトルコの伝統的なレース編みのことである。通常、スカーフを飾る縁取りとして編まれるが、オスマン時代には晴れ着を着たときの髪飾りにも使われていた。博物館には当時の古いオヤのスカーフも服飾品として展示されている。  

最近ではスカーフ以外のアクセサリー(ネックレス、ブローチ、イヤリングなど)も出回るようになり、スカーフを被らない女性もおしゃれに利用するようになってきた。

日本のカルチャーセンターでもオヤの教室が設けられ、本も出版されている。

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絹の産地だったNallihanのオヤは絹糸で編まれ、町をあげて伝統を受け継ぐがれるよう若い女性達にも新しいデザインでの指導が実施されている。街の中心に、オヤの家が作られ、作品を展示即売とともに材料の糸やパーツが売られている。 特にイーネオヤは1本の縫い針に糸を通して一つずつ塊を作っていくという気の遠くなるような作業である。 こんなプレゼントを貰ったら、心して身につけて欲しいものです。

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パーツを買いに来た女性がイーネオヤ製作を実演してくれた。 目が痛くなりそう・・・・ トルコ女性は忍耐強いのかもしれない。    

2011年1月 6日 (木)

エドワード・W・サイードの映像

暮にNHKハイビジョンでドキュメンタリー再放送「パレスチナ響きあう声」~E.W.サイードの提言から~を観た。 サイードといえば、「オリエンタリズム」の著者であり、大江健三郎の友人でお馴染みだが、動くサイードを見たのは、はじめてである。 

アラブ系の濃い顔を想像していたのだが、動く彼の風貌は一般西洋人と変わらない。 2003年、白血病で亡くなる前の映像である。 録画しようにも我が家のビデオはBS不可、あわててテレビの映像に向かってシャッターを切った。確かに静画ではアラブらしさも感じられる。 キリスト教徒の家庭でエルサレム生まれ、カイロ育ち、アメリカに渡る、というバックグラウンドなればこそ彼の提言が可能なのだろう。 

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2011年はサイードの遺産にどっぷり浸かってみようか・・・それにしても購買力のない彼の著書はかなり高額なのが悩みである(図書館の本には落書きができない)。

2011年1月 3日 (月)

「たんぽぽのうたがきこえる」 石黒和枝著               サンパテイック・カフェ発行

年末、おひさまの会(おやこ劇場仲間)メンバーの友人から1冊の本が届いた。 

障がいを持って生まれた息子が36歳で他界するまでを綴ったものである。 その間、著者は川口に「おやこ劇場」を立ち上げ、夫が脳梗塞で倒れたり、自らも腰痛に悩まされながら、息子とともに家族や仲間達との絆を深く育くみ、逆に色々なことを学んでいく。 36年間息子とともに関わり、支えられた養護学校、施設、病院、友人達、仲間達への感謝の心で溢れ、 障がい者から与えられるもの、学ぶものの多さを知らせてくれる。 読後は、暖かいものが全身に流れ、何故か癒された気分になった。 

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日本の行政はいつの頃からか障害者の害をがいに訂正、めくら縞のめくらは禁止、看護婦は看護士に、女優・男優も俳優に・・・・・ラテン系言語から男性名詞女性名詞を消滅させたらどうなるのだろう。 そんな風に「形だけ」にこだわるよりは「差別心」を改めることにこだわるのが先決ではないだろうか。 書籍のない図書館のようなものを連立させるのでは意味がない。 先ずは、このような書を読んで彼らを取り巻く状況の理解を深めたいものである。 読書は疑似体験ができるマジックでもあるのだから。

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