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2011年1月21日 (金)

「コクトー、1936年の日本を歩く」 西川正巳著  中央公論社

1936年(昭和11年)5月16日から7日間ジャン・コクトーは戒厳令下の日本に来ていた。 しかも香港からチャップリンと同船で神戸に上陸。 すでに作品が翻訳され知名度のある詩人は日夜熱烈な歓待を受けながら、彼の詩眼は鋭い観察をしている

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芸者達と連日席をともにし、芸者をさして「仮面の裏側に感情を匿した哀しげな人形」といい

「日本の女性にはふわふわとして、微風に翻る薄絹というか、胡蝶とかそういう柔らくて、軽い感じと、反面、鉄の筋でもはいっているかと思われるような堅さがある」、

相撲を観戦しては、「若いバラ色のヘラクレスたち」、双葉山を「無敗の仏陀」と表現。

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歌舞伎座では六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」を見て、「舞台の上の宗教神事の高さ」とラジオ番組で語った。 

その後、彼の映画「美女と野獣」のメークアップは歌舞伎の隈取から発想したものであるという定説になった。

同行案内役は名翻訳者堀口大学とモンパルナスの旧友、藤田嗣治。フジタは浅草・吉原・玉の井に連れ出す。

コクトーファンの林芙美子が文芸家協会会長(菊池寛)の代理として花束を贈り、日本ペンクラブは出来立てのホヤホヤで会長は島崎藤村、「恐るべき子供たち」の翻訳者は何と画家の東郷青児だった等々・・・・ワイドショー的にも面白い。

コクトーは大正・昭和初期の日本インテリ・カルチャー族にはあこがれの的であったらしいが、相反して時代は軍国主義に導かれて行く矛盾を辿るのである。 

「コクトオの見た日本」「コクトーの世界一周」・・・・・・堀口大学の日本語の美しさに敬服。

                  私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ

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