鶯谷から徒歩数分、路地をウロウロして、念願の子規庵をやっと訪ねた。
こんな玄関は子供時代にはよく見かけたので、懐かしい。 この玄関からは多数の著名な文豪たちが出入りしていたらしい。たった二間の狭い座敷によくぞ集まったものだと感心する。(正岡子規:1867~1902)
この部屋で庭を眺めながら、闘病しつつ創作を続けた。この机の四角い穴が気になった。火鉢を置いて手をかざすための穴か? 実は、結核性脊椎カリエスで正座のできない左足を立てるための、特注机のレプリカだという。(本物は隣の文庫蔵に保存)
この机にしがみつきながら、「病臥六尺」を書いたという。
今年の糸瓜の苗がすくすく育っている。
大正12年、関東大震災で家屋傾くが、保存会により、改築。其の後、大空襲にて焼失したが、文庫蔵は残る。 昭和25年、門人等の尽力により、ほぼ当時のままに再建。
残念ながら、令和の今日、周囲にはギンギラギンの御休み処が所狭しと目に入る。そのうちに、この「庵」も明治村に移転されそうな気がする。コロナ後はボランテイアも集まらず、運営困難な状況であるらしい。
母と妹に看取られながら病魔との壮絶な戦い。
首あげて折々見るや庭の萩
トルコのノーベル賞作家、オルハン・パムックの新しい翻訳本: 宮下遼訳の「ペストの夜」が早川書房より出版された。 舞台はエーゲ海に浮かぶ「ミンゲル島」という架空の島であり、ミンゲル人も架空民族である。時代はオスマン帝国末期、アブデル・ハミト二世の治世(1876-1909)。
その小さな島でペストが流行し、殺人事件なども起こる。 読者は催眠術にかけられたかのように、架空の島、架空の国家に引き込まれる。
こんな風に、地図まで掲載しているから、素直な読者は騙されてしまう。
イスタンブルには「無垢の博物館」という作品と同名の博物館が存在し、主人公の部屋にベットや品々が陳列されている。あたかも登場人物たちが息づいているかのような雰囲気。 コーナーには世界中で発行されたパムック本の売店になっている。もちろん入場料は必要。ある意味で、彼の「遊び」に付き合うことになのるだが・・・それが楽しい。
1952イスタンブル生れ。生粋のイスタンブルっ子、幼児期から「西の人」として成長。
2006年度ノーベル文学賞受賞
邦訳作品:
わたしの名は紅、雪、白い城、黒い本、無垢の博物館、新しい人生、父のトランク、イスタンブル、僕の違和感、赤い服を着た女、等々。
久しぶりで友人とランチ。 場所は閑静な目白。食後のカフェがなかなか見つからない。ひたすら目白通りを歩いていると・・・
こんな窓を見つけた。 覗いてみるとケーキ屋さん! 素敵な女性が顔を出して、「お茶も飲めますよ」とのこと。恐る恐る入ってみると、センスの良いインテリアと小物たち。
先ず、目を引いたのはケーキケースの中のレース。なんとミラノ調達のウエデイングドレスの一部なのだそうである。大学卒業後、結婚してからお菓子修業にパリへ行き、帰国後、開店。子育てしながら15年とか。
テーブルには、素敵な缶が並んでいた。クッキーを入れて、素敵な人にプレゼントしたらステキだろうなアと思う。予約すればBirthday Cakeも可能。
オリーブとラヴェンダーのある入口に立つKaoriさん
Kaori Hirone:新宿区下落合3-20-1 03-5996-3300
JR目白駅より目白通りを徒歩5分。信号「下落合3丁目」前
年に一度、同窓会だよりなるものが届くのだが、またまた会費のおねだりかな?とポイっと捨ててしまうのが常であった。今回はペラペラめくっていると染色デザイナーとして懐かしい友人の名前を発見。
彼女とは高校1年生の時、席が隣同士、ジェーン・エアを読みあって仲良しになった。其の後、クラスが変って疎遠のまま卒業。時々思い出していたが、おさげ髪の文学少女は幸せな主婦をやっていることだろう・・・と想像していた。
彼女の父上は漢方薬剤師で蝙蝠を探していて鍾乳洞を発見したことで有名。柳田国男氏とも交流があったという。
20歳で染色をはじめ、地元でカフェを営みながら、一時は琉球紅型染色に傾倒したそうである。 地元紙に「イスタンブールという都」というタイトルでトルコの魅力を紹介している。
是非是非連絡を取り親交を温めたいと思ったのだが、残念無念! 2006年に他界していた。もし、会うことがかなっていたなら、染色やイスタンブルやジェーン・エアの話に花を咲かせたに違いない・・・・と想像する。
ジェーン・エアを愛するひたむきな黒髪の乙女に白い花を
トルコ東南部の大地震発生から1か月イスタンブル在住の友人、土屋ともえさんからやっとメール返信があった。一ヶ月間、現地取材に行っていたそうである。
残念ながら、映像がうまく転載できないので、文章のみ掲載。
『今にも今にも崩壊しそうな壊れたビルで、重機ががれきを崩している。すると、ビルは崩壊。これは工事のミスではなく、ビルの解体工事の様子。トルコでは、各地に崩壊寸前の建物が無数に残っている。そして、多くの車が通るすぐ横で、また1つ、ビルが崩壊。解体を待っていた建物だった。大地震から、1カ月以上。相次ぐ建物の崩壊に巻き込まれるなどし、死者はさらに増加。トルコとシリアあわせて5万2,000人以上にのぼっている。そんな中で続く、日本の援助隊の医療支援。医師などのボランティアが、交代で現地入りしている。
昨日、イスタンブールに戻る便に日本の医療隊も乗っていたのですが、彼らが搭乗しようとしたら自然に拍手が湧き起こりました。機内でも体調不良の人が出て、日本人医師がケアしていました。』
24年前も、トルコ大地震があった。「ガンバレトルコ」という企画に参加し、現地で不足しているテントを送った(トルコ航空が無料搬送)等々懐かしい記憶が蘇る。
当時、いち早く自衛隊が阪神地震時に使用した仮設住宅を船で現地へ搬送したのは良いけれど。 そのまま置きっぱなし! 生活様式も異なる水道やガスサイズも違う使い古しの住宅を設置するのは至難の業。秋になって寒くなって、それでも日本からの住宅が出来上がらない・・・と言って泣いていたおじいさんが居た。 まるで瓦礫を捨てに行ったかのように思えてならなかった。
フランスやドイツは現地材料を駆使して、住宅を設置しているというのに・・・。日本のボランテイア精神にはノウハウがないことを痛切に感じたのだった。それにしても、今回の医療支援は現地で活躍できたようで本当に良かった!
トルコ国花のチューリップ = ガンバレトルコ!
もはやもう、「金の卵」は死語であるらしい。忘れることも生きるコツかもしれない。それにしても学校では古代史を学ばせるのだが、近代史は学ばせない。試験にも出ないからひたすら忘却の彼方へ。3・11・はまだ記憶に新しいけれど、すでに風化しつつある。
少しは心のどこかに、記憶しておいたほうが良いとは思うけれど、今の若い世代は受験勉強でそれどころではないらしい。大学に入ればバイトが忙しくて考える暇もないとそうだ。卒業しても就職できなければ奨学金の負債が追いかけてくるという現実。心の余裕もない。
かつて、集団就職という国策があった。貧しい田舎の子供たちを斡旋する就活である。自分より成績の良い子が便乗して都会に出て行くときに、就職列車という夜行臨時列車に乗るのを近くの駅で見送ったことがある。そのすすけた古めかしい列車が到着したときには、すでに北のほうから赤いリンゴほっぺの女の子たちが乗り込んでいた。安定所のオジサンが旗を掲げて同乗(人買いのごとく)。見送りに来た親たちは走りながら列車を追いかける。テールランプが闇に消えた。
そして自分は高校に行けることの幸せをかみしめた。
早朝上野駅に着くと金の卵の受け入れ先が旗を振って、向かいに来ていた。まるで人買い市場のような賑わいだったと言いう。彼らはそれぞれの職場で修業に励み、盆暮れに帰郷することが唯一の楽しみだった。
時には仲間たちと上野の西郷さんで待ち合わせて、「高校に行った人達に負けないように頑張っぺ」と励ましあったそうである。
映画「3丁目の夕日」そのものである。
東北は圧倒的に貧しい農村で子だくさんが多かったから、中学を卒業すれば実家から出ていくのは当然のこと。中卒の友人と連絡を取り合っているが、当時を特に不幸だとは思っていなかったという。
学歴社会の中で、彼らこそ日本を支えてきたことを覚えておきたい。
十五の春「金の卵」の上野駅
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